多くの英国、米国の教師達のおかげで英語が上達しました。

多くの英国人、アメリカ人の講師たちに恵まれた

通っていた大学に外国人が沢山おり、特にイギリス人、アメリカ人と頻繁に付き合いました。英語やほかの外国語の実習は外国人の先生が担当するので、嫌でも親密な付き合いになります。

最初にお世話になったのはイギリス人の講師でした。少し日本語ができたようですが、とにかく堅い人物で、何度か無断欠席をしたところ、「もう私のクラスに来るな」と言い渡されました。

講師の部屋に行って継続できるようにお願いしたのですが、無断欠席は無断欠席だと言われ、追い返されました。

英語の授業も何種類かあり、次はベトナム戦争帰りのアメリカ人の講師の授業に出席しました。とにかく明るく、「戦争で失った青春を日本で取り戻すんだ!」といつも言っていました。

私もそのクラスではかなりできた方だったので、すぐに仲良くなり、2,3年お世話になりました。その講師も私も大学に自転車で通っており、顔を合わせるたびに挨拶と短い会話を交わしていました。

日本人の奥さんがおり、「昨夜は一人で2時間も、ビールを片手に野球中継を見ていた。こんなことができるのはアメリカ人ぐらいだ」というような発言が目立ちました。

他にも二人ほど「アメリカ人」がおり、一人は禿げ頭の大男で、文学者でした。どう見てもアメリカの暴走族のような風貌なのですが、かなり神経質な人で、教室の外で掃除のおばちゃんが物音を立てていると、「うるさいから後でやってくれ」と抗議するような人でした。

ちなみに卒業論文は英語で書くのですが、この先生が見直しをしてくれて、まるで息子の宿題を見る父親のような眼差しだったのを覚えています。

もう一人はもっと神経質な文学の講師で、未婚主義者だったのですが、学生の一人にしつこく言い寄られてしぶしぶ結婚したそうです。

なんでも人混み恐怖症だとかで、電車に乗れないので車で通勤されていました。よく「英語の勉強に辞書はいらない。辞書なんか窓から投げ捨てろ」と仰っていました。

誰も捨てませんでしたが、言葉の枝葉末節にわたって解説していて、文法に合わない言い方をすると即座に訂正されました。

「これで英語恐怖症になる人もいるんじゃないのか」とも思いました。
こういう環境で仕込まれたので、その後は語学で困ったことはあまりありません。


日本語の教材を作ってカセットテープに録音しました。

英国人銀行員の日本語教師体験

若い頃、日本語教師のグループがあり、私もそこに所属していたことがありました。
まだ、外国人に日本語教育が始まった頃の草分け的グループで、当時の事務所は、麻布にありました。
麻布と言っても、木造の小さなアパートの小さい和室。そこにこたつがあって、何とも暖かい感じの事務所でした。

私は、そこで銀行勤めをしている英国人を紹介され、マンションを訪問して家庭教師的に日本語を教えるという仕事をしていました。
この英国人のマンションは、当時四谷麹町にあり日本テレビを通り越して、そのマンションに通ったものでした。

当時、日本語教師として、初めて英国人の男性を担当したのですが、日本語講師という仕事自体も現在のように組織化されていなくて、また、教材も的確なテキストも少なく、どちらかと言えば「これは本です。」的な教え方をする教材が多く、音を利用したり、絵を利用したり、会話体で教えるようなものがなかった頃のことです。

私も、その英国人男性も「これは本です。」的なレッスンには関心はなく、彼ももっとフレキシブルな設定での日本語会話を望んでいました。その英国人は「ここは寿司バーだ。ここでの日本語会話をしよう。」とか面白い設定を考えてくれたりしましたので、私もできるだけ立体的なレッスンをするように心がけました。

そうした中で、忘れられない思い出があります。
私が教えていた英国人は、銀行に勤めていましたが、多忙でなかなかレッスンが受けられなかったため、暇な折に聞いてもらえるように、カセットテープに日本語と英語会話を吹き込んで自家製の生の日本語会話テープを造りました。

そして、それを「あとで聞いてください。」とその英国人に渡しました。ところが、茶目っ気のある彼は「今、聞いてみたい。」と言いだし、それをステレオにかけました。
彼のステレオは、当時珍しかった音量の素晴らしい4チャンネルステレオでした。その素晴らしいステレオの四方八方から、私の声が響き渡るその恥ずかしさは、穴があったら入りたいような心境でした。

音量が余りに素晴らしいので、部屋中が私の声で満ち溢れ、響き渡りました。英国人は、私の英語の発音はきれいだと褒めてはくれましたが、いたたまれない恥ずかしさと、けれど、一方、高品質のステレオから響きわたる私の英語と日本語は、そう悪くないではないかと若干の快感めいたものも感じたのでした。

結局、同氏は銀行業務が多忙を極め、とうとう日本語のレッスンは続けられなくなりました。一年程経って、この日本語グループは寄付を募り法人になり、表通りに出て近くのビルに転居しました。何となく入所当初の素朴な暖かみは感じられなくなり、同時に東京の郊外から通っていた私も、遠い距離に疲れてしまい、この英国の男性が退会したのをキッカケに、私もグループを辞めてしまいました。

時折、その時のことを思い出し、その英国人は、その後、私のテープを少しは聞いてくれたのだろうかと思うこともあります。