多くの英国、米国の教師達のおかげで英語が上達しました。

多くの英国人、アメリカ人の講師たちに恵まれた

通っていた大学に外国人が沢山おり、特にイギリス人、アメリカ人と頻繁に付き合いました。英語やほかの外国語の実習は外国人の先生が担当するので、嫌でも親密な付き合いになります。

最初にお世話になったのはイギリス人の講師でした。少し日本語ができたようですが、とにかく堅い人物で、何度か無断欠席をしたところ、「もう私のクラスに来るな」と言い渡されました。

講師の部屋に行って継続できるようにお願いしたのですが、無断欠席は無断欠席だと言われ、追い返されました。

英語の授業も何種類かあり、次はベトナム戦争帰りのアメリカ人の講師の授業に出席しました。とにかく明るく、「戦争で失った青春を日本で取り戻すんだ!」といつも言っていました。

私もそのクラスではかなりできた方だったので、すぐに仲良くなり、2,3年お世話になりました。その講師も私も大学に自転車で通っており、顔を合わせるたびに挨拶と短い会話を交わしていました。

日本人の奥さんがおり、「昨夜は一人で2時間も、ビールを片手に野球中継を見ていた。こんなことができるのはアメリカ人ぐらいだ」というような発言が目立ちました。

他にも二人ほど「アメリカ人」がおり、一人は禿げ頭の大男で、文学者でした。どう見てもアメリカの暴走族のような風貌なのですが、かなり神経質な人で、教室の外で掃除のおばちゃんが物音を立てていると、「うるさいから後でやってくれ」と抗議するような人でした。

ちなみに卒業論文は英語で書くのですが、この先生が見直しをしてくれて、まるで息子の宿題を見る父親のような眼差しだったのを覚えています。

もう一人はもっと神経質な文学の講師で、未婚主義者だったのですが、学生の一人にしつこく言い寄られてしぶしぶ結婚したそうです。

なんでも人混み恐怖症だとかで、電車に乗れないので車で通勤されていました。よく「英語の勉強に辞書はいらない。辞書なんか窓から投げ捨てろ」と仰っていました。

誰も捨てませんでしたが、言葉の枝葉末節にわたって解説していて、文法に合わない言い方をすると即座に訂正されました。

「これで英語恐怖症になる人もいるんじゃないのか」とも思いました。
こういう環境で仕込まれたので、その後は語学で困ったことはあまりありません。


日本語の教材を作ってカセットテープに録音しました。

英国人銀行員の日本語教師体験

若い頃、日本語教師のグループがあり、私もそこに所属していたことがありました。
まだ、外国人に日本語教育が始まった頃の草分け的グループで、当時の事務所は、麻布にありました。
麻布と言っても、木造の小さなアパートの小さい和室。そこにこたつがあって、何とも暖かい感じの事務所でした。

私は、そこで銀行勤めをしている英国人を紹介され、マンションを訪問して家庭教師的に日本語を教えるという仕事をしていました。
この英国人のマンションは、当時四谷麹町にあり日本テレビを通り越して、そのマンションに通ったものでした。

当時、日本語教師として、初めて英国人の男性を担当したのですが、日本語講師という仕事自体も現在のように組織化されていなくて、また、教材も的確なテキストも少なく、どちらかと言えば「これは本です。」的な教え方をする教材が多く、音を利用したり、絵を利用したり、会話体で教えるようなものがなかった頃のことです。

私も、その英国人男性も「これは本です。」的なレッスンには関心はなく、彼ももっとフレキシブルな設定での日本語会話を望んでいました。その英国人は「ここは寿司バーだ。ここでの日本語会話をしよう。」とか面白い設定を考えてくれたりしましたので、私もできるだけ立体的なレッスンをするように心がけました。

そうした中で、忘れられない思い出があります。
私が教えていた英国人は、銀行に勤めていましたが、多忙でなかなかレッスンが受けられなかったため、暇な折に聞いてもらえるように、カセットテープに日本語と英語会話を吹き込んで自家製の生の日本語会話テープを造りました。

そして、それを「あとで聞いてください。」とその英国人に渡しました。ところが、茶目っ気のある彼は「今、聞いてみたい。」と言いだし、それをステレオにかけました。
彼のステレオは、当時珍しかった音量の素晴らしい4チャンネルステレオでした。その素晴らしいステレオの四方八方から、私の声が響き渡るその恥ずかしさは、穴があったら入りたいような心境でした。

音量が余りに素晴らしいので、部屋中が私の声で満ち溢れ、響き渡りました。英国人は、私の英語の発音はきれいだと褒めてはくれましたが、いたたまれない恥ずかしさと、けれど、一方、高品質のステレオから響きわたる私の英語と日本語は、そう悪くないではないかと若干の快感めいたものも感じたのでした。

結局、同氏は銀行業務が多忙を極め、とうとう日本語のレッスンは続けられなくなりました。一年程経って、この日本語グループは寄付を募り法人になり、表通りに出て近くのビルに転居しました。何となく入所当初の素朴な暖かみは感じられなくなり、同時に東京の郊外から通っていた私も、遠い距離に疲れてしまい、この英国の男性が退会したのをキッカケに、私もグループを辞めてしまいました。

時折、その時のことを思い出し、その英国人は、その後、私のテープを少しは聞いてくれたのだろうかと思うこともあります。


new-zealand

ニュージーランドでインフルエンザにかかった

ニュージーランドのバックパッカーと呼ばれる旅人の安宿を利用していた時の思い出です。

私はワーキングホリデーを利用してニュージーランドに渡航しました。あまりお金の持ち合わせも無いまま現地に行き、安く寝泊りできるところを探した結果、とあるバックパッカーを見つけて利用していました。

そのバックパッカーは語学学校からも近く、日本人がオーナーということもあって、安心して利用できました。

そのバックパッカーで知り合ったのがアイルランド人、ドイツ人、アメリカ人、韓国人、フランス人、カナダ人でした。

学校から帰ると、大体彼らも帰宅していて共同リビングでまったりしていました。毎日毎日顔を合わせる内に次第に打ち解けていきました。この時、英語が堪能でなくてもなんとかなるもんだなと感じたものです。

しかし、ある時私はまさかのインフルエンザにかかってしまいました。凄まじい高熱と吐き気、頭痛に立ち上がることができず部屋に常備していた水も底を付き、こんな狭い部屋のしかもニュージーランドの安宿で死ぬことになるのかと思ったことを未だに鮮明に覚えています。

軽く気を失った後、かなり汗をかいたこともあり、フラフラしながらも立ち上がることができ、共同リビングへと足を運びました。とにかく水が飲みたかった。

リビングにはいつものメンバーがいて、中でも仲良くしていたアイルランド人がパジャマ姿の俺を見るなり近寄ってきて、心配してくれました。あの時の優しさは忘れない。

韓国人の女の子は、ビタミン取らないとだめだよ、なんて言いながら私にトマトケチャップを渡してきました。あれは本気だったのか冗談だったのか、未だに分かりません。いい思い出です。


JICAの張さんとうちの子は仲良しでした

我が家に張さんという中国の方が1週間ホームスティしました。

2LDkの小さなアパートで、旦那と子供(上5歳、下3歳)と私の4人住まいの家でのホームスティは狭かったけど、楽しかったです。

張さんはJICA関係で来日されていて、平日は国際交流協会に出かけて行きます。5時過ぎに帰ってくると、私の子供の面倒を良く見てくれました。

張さんも同じ年の子共がいるそうで、その子のことを思い出すと言ってくれました。上の子が自転車に挑戦し始めた時でもあり、危なっかしく自転車のペダルを漕いでいる幼い子に、張さんは身振り手振りで真剣に自転車の乗り方を教えていました。

自転車の後ろの部分を両手で支えると「go!」と言うので子供がペダルを漕ぎだします。ある程度スピードに乗って来て安定し出すと張さんは手を離して見守ります。

「手を離さないでねー」とペダルを漕ぎながら子供が言うのですが、自転車からすでに手を離している張さんは「ツッエ、ツッエ(いいぞ!)」とか「チャーヨ!(ガンバレ)」とか澄まして言っているのがおかしくて、私は思わず笑ってしまいました。

子供があんなに難しがっていた自転車に乗れるようになったのは張さんのお蔭です。中国の方は朝はおかゆが多いので、家も朝は張さんようにおかゆを炊きました。おかゆは消化が良いので家の子供にも一緒に食べさせました。

日本のからし高菜がすごく気に入ってくれて、朝ごはんはからし高菜とおかゆがあれば満足と言っていましたよ。

張さんは料理も上手で良く作ってくれました。ギョーザ、チャーハン、白湯などです。中でもキクラゲとひき肉を使った中華料理は、私にキクラゲのおいしさを教えてくれた料理で今でも記憶に残っています。

昨今領土問題や経済摩擦などで中国との軋轢が高まっているように感じます。国家意識や国民感情を取り払い個人同士での付き合いならば、こんなにもフレンドリーに付き合えるのに、なんだか残念です。中国のニュースを見る度に張さんのことを思い出します。


若きウェルテルの悩み@宮島

学生時代に方々を気ままに旅をするのが好きでした。
そのときは姉と一緒に四国を一周したのち、
しまなみ海道から本州に入り広島のユースホステルに宿泊していたときのことです。

共用スペースにはたくさんの外国の方がいて、
私たち姉妹は片言ではありましたが、
あるイギリスの紳士と会話を楽しんでいました。

その様子を明らかにじっと見つめる一人の外国人青年がいて、
私たちとイギリス紳士は会話へと招き入れました。
彼はフランスから一人旅に来た青年で、
日本語も英語もそれほど堪能ではありませんでした。
(イギリス人紳士との発音の差異があったのかもしれません。)

ですから終止口数は少なく表情も物憂げです。
翌日はどこへ行くのかなど話を進めていたところ、
そのフランス人青年は宮島へ行くということがわかりました。
実は私たち姉妹の旅程も安芸の宮島散策であったのです。
それが分かるや否や、無口であったフランス青年は
私たちと一緒に是非宮島に行きたい。自分一人だと心細い…
ということを必死で訴えかけてきたのです。

私たちは宮島観光のあともすぐに出向きたいところがあり
出発は早朝になるということを伝え、それでもOKか?と尋ねましたが、
とにかく一人じゃ心細いというので
私たちの時間に合わせて一緒に宿を出て向かうことになりました。

翌朝ユースホステルの玄関前にはきちんとフランス青年はいて
私たちを待ってくれていました。
まさか外国の方と一緒に旅をするとは思ってもみませんでしたが、これも縁なのです。

宮島までの周遊船の中でも彼は静かでした。
自己主張の強い外国人というイメージは彼をとおして払拭され、
若きウェルテルの悩みと言わんばかりの物憂げな表情に、
さすがフランスは違うねと姉とささやきあいながら彼を見ていました。

私たちが訪れたとき、ちょうど大鳥居の改修工事が行われており
周りに足場が組まれていたのですが、
宮島に降り立ってからのフランス青年は
今まで見たこともないくらい表情が生き生きとしてきました。

そして歩きながら、ビューティフル、グッド…と
私たちでも分かる英単語でしきりに感動を伝えてくれました。
私たちも初めて訪れた宮島でありながらも
自国が褒められていることが嬉しくて鼻が高いような気分でした。

彼はゆっくり宮島全体を見て回りたいというので
先を急ぐ私たち姉妹と行動を別にすることになりました。
Eメールアドレスの交換をしてその後も何回かは連絡を取り合っていましたが、
この旅での最高の思い出として
彼と過ごした貴重な時間が忘れられません。


英語の勉強の切っ掛けになったパーティ

私の外国人の方との交流といえば、いつも思い出すことがあります。大学生の時、大学の留学生歓迎パーティに参加したことがあります。それまで田舎で育って外国人の方と一度も交流したことがなく大学生になったので、外国人の方と交流するのは初めてでした。

お友達に誘われて参加したのですが、会場では何もできずに壁の花だったのを覚えています。
当時は英語がほとんどできなかったのもあったし、外国人の方とおしゃべりしようという度胸も無かったんですね。

海外ドラマなどを見ると、外国ではパーティ文化のためみなさんパーティ慣れしていて、堂々としています。日本人はパーティに参加する機会がないからか、いざパーティで何をしたら良いかどぎまぎしてしまう人が多いと思います。その時の私もそのとおりで、交流などまったくできず食事だけして帰りました。

ほんと良い機会だったのに、もったいないですね。外国の方に言わせると、日本人は伝わらなかったらどうしようと考えすぎだということらしいです。構えることなく、伝えようという気持ちがあれば交流もできるし語学も上達するはずですよね。

私は、何もできなかったパーティを機に「外国人の方と交流するためにはまず語学から!」と奮起し英会話教室に通うようになりました。英会話は趣味として、今でも続けています。私のやる気を引き出してくれたそのパーティに今ではとても感謝しています。

今も、外国人の方と日常的に交流する機会はそれほど無いのですが、海外旅行に行く時や、街でふいに道を聞かれたりと、そういうときに勉強したことが役に立っています。


渋谷のスターバックスでの出会い

私は英語が好きで、大学も英文科を専攻していました。
しかし、社会人になってから職場で外国の方と交流する機会は滅多になく、
英語力の衰えを感じていました。

知り合いの友人は、英語力をつける為に外国人のルームメイトを見つけて
英語力を身に付けました。
かと言って危険性もあるので私はそんな行動を取る勇気も持てず、
日常生活の中で何とか知り合えないかな?と思いながら過ごしていました。

そんな時、2年程前の話になりますが、私は渋谷で一人買い物をしていて、
帰りにスクランブル交差点前のスターバックスに寄って
温かいコーヒーを注文しました。

この店舗はいつも混んでおり、分かってはいましたが、
この日もスタンディング席で一人お茶をしていました。

すると金髪の少し年上に見える外国人の女性がやってきて、
空席が見つからず店内を歩き回っていて、一瞬目が合ってしまいました。

スタンディング席ではありますが、
もう一人がコーヒーカップを置く事は出来るスペースです。
私は「どうぞ。」の意味を込めてニコっと笑いかけました。

女性は嬉しそうに近付いてきました。
英語で「合席してもいいですか?」と訊かれ、「もちろんどうぞ。」と答えました。

見知らぬ者同士の気まずい沈黙が流れます。
何か話しかけようかな、と思った瞬間、女性の方から話しかけてきました。
そこから私達の長い会話が始まりました。

女性はカナダからの留学生でした。
日本語は殆ど話せないので英語だけでの会話でしたが、
久しぶりに英語を使えて、
また意外に意思疎通が出来たので嬉しく思いました。

私達はすっかり意気投合していました。
気付いた時は終電ギリギリになっており、コ
ーヒーはとっくになくなっていました。
私達は連絡先を交換し、その後も会う約束もしました。
こんな出会いもあるんだな、と嬉しい経験でした。


中国語を教えてくれた彼女

小さい頃から中国に憧れていた私は学生時代に中国語を勉強していました。
中国語に自信が無いものの、
何とか身につけたいと思い留学をすることにしました。
いざ行ってみると中国語で行われる授業に
なかなか付いて行けず悩むことになりました。

そんな時に担任の中国人の先生が
「日本語を勉強したがっている中国人の学生がいるから一緒に教え合ったらどう?」
と提案してきました。
ちょっと考え込む私に先生は「とりあえず会ってみなさい」と
言って強引に決めてしまいました。

その日の午後に待ち合わせをした場所で待っていると
可愛らしい女性が走ってきます。
あきらかにまがい物と分かる
ミニーマウスがデザインされたシャツを着ていたのが印象的でした。
私が中国語で自己紹介をすると、
彼女もたどたどしい日本語で自己紹介してくれました。

彼女とはその日に少しずつ言葉を教え合ったのですが、
これからもずっと日本語を教えて欲しいと頼まれたのでオーケーしました。
それからは毎日数時間お互いに言葉を教え合う関係となりました。

しばらく経つと彼女から大きな動物園があるから
一緒に行ってみないかと誘われました。
前から行ってみたいと思っていたので行くことになりました。

とてつもなく広い敷地にある動物園で彼女と歩いていると
腕を組んでも良いかと聞いてきます。
2人の写真を他の人に撮ってもらう時には抱きついてきます。

そして今でも何故だか分かりませんが、
ゴリラを一緒に見ている時に告白されました。

外国人の方から告白されたのも初めてですし、
付き合ったことも無いので少し戸惑いましたが
真剣な彼女の表情を見て付き合うことを決めました。

言葉だけでなく、文化や考え方の違いもありましたが
彼女とは一緒にいて楽しかったですし、
中国語がかなり上達したと思います。

私が帰国する時には空港で号泣し
「日本に必ず行くから」と言って、
翌年今度は彼女が本当に日本に留学しに来た時は
驚きと共に感動しました。
今でもその時の嬉しかった気持ちは忘れられません。


海外の方と関わること

私が新卒で入社した企業の配属先が海外部門でした。海外と聞くと多くの方が欧米を思い浮かべるかと思いますが、私の担当国は主に東南アジアでした。初めのうちは私の英語があまりに稚拙過ぎて、楽しく現地からの研修生・企業内転勤者や出張者と話すことが出来ませんでした。しかし、3年程経つと仕事にも慣れたこともあり、お昼休み中に研修生が遊びに来てくれたりと楽しいお昼休みを過ごせたことを今でも明確に覚えています。
しかし、彼らと主に関わったのは仕事の上でのこと。笑えること、嫌なことやカルチャーショックも山ほどありました。
ある時、研修先のトレーナーさんから”研修生が用をたした後に、洗面台でお尻を洗っているのを見た従業員がいた。なんとかしてくれ”と苦情がありました。以前にもアジア系の研修生を受け入れたことのある部署だったので、そんな簡単なミスが起こるものかと思っていましたが、それが起こっていたのです。その研修生の国の多くの場所では、トイレットペーパーの代わりにトイレの横にバケツであったり、専用の蛇口が用意されているそうで、以前に研修生が来た時は他のトレーナーさんが専用にバケツを用意をして下さって問題が起きなかったそうです。しかし、その時の担当トレーナーさんは研修生の受け入れが初めて。私たちは研修生に関わる事務全般と職場に引き渡すまでのオリエンテーションまでが研修生と面と向かえる時間。研修時の細かい行動までは把握しておらず。
担当国の研修生と言うこともあって私が対処しなければいけなかったのですが、当時私は20代前半。とてもトイレの問題を50代の男性トレーナーさんとやり取りすることが恥ずかしくてできず、上司に説明をして対処してもらいました。
その現場に偶然出くわしてしまった他の従業員の方も気の毒だったと思います。しかし、私が上司に引き渡すまでの話をしていた際に、他の方からコッソリと笑われていたのも知っているので、あの時の恥ずかしさは忘れることが出来ません。
それでも、その”日本ではありえないのに”が、海外の方と関わることをこれからも続けていきたい、と思える原動力になっています。


7才の娘さんがとても可愛かった米軍基地でのホームステイ

忘れもしない高校時代の修学旅行。その修学旅行で米軍基地に住んでる家族の家で一日ホームステイをしました。

初めて入る米軍基地に嬉しさと緊張のドキドキ感が今でも良い思い出です。もちろん、英語なんて喋れないし上手く聞き取る事も出来ない。学ランのポケットに英単語帳を忍ばせて、友達と二人でホームステイ開始。

ステイ先のお父さんはもちろん軍人さん。なので、会えるのは仕事終わりのディナーの時のみだった。素敵な笑顔で迎えてくれたのは綺麗な奥さんと7歳の娘さんだった。

日本語が全く通じない。分かってはいたが、言葉が通じないこの状況でほぼ一日を共に過ごすという状況。限られた時間でちゃんとコミュニケーションをとれるようにメッチャ頑張った。

まぁ、簡単な会話なら通じたのでなんとかなったけど問題は普通に会話された時。本当に何言ってるかわからない。それでも、ちゃんと目を見て聞いているとなんとなく言いたい事がわかる不思議な体験をした。

しかし、そんな事を遥かに超える衝撃的な思い出がある。当時7歳の娘さんが本当に可愛かった。外人の子供はこんなにも可愛いのかと衝撃をうけた。友達も同じ感想だった。そして、英語を話せない事を悔やんだのも覚えてる。

ボーリングやドライブをした後に自宅に案内してくれて、DVDを見て談笑をした。その後にディナーだ。そのディナーの時にお父さん登場。想像通りの軍人さんが登場して萎縮したのは今でも記憶に新しい。

ムキムキの鍛え上げられたお父さんだったけど、優しい笑顔で迎えてくれた。美味しい手料理をほおばりながらアッという間に楽しい時間は過ぎていった。結局、忍ばせた英単語帳は発見されディナー時の笑いのネタにされてしまった。コソコソ見ていたのがまずかったらしい。やはり外国の人達はオープンな方が気持ちいいらしい。なにはともあれ、米軍基地にて良い思い出が出来ました!


不思議な国JAPAN

90年代の話ですが、仕事でドイツやアメリカの大学教授夫妻らを鎌倉・横浜に観光案内したことがあります。その際、江ノ電に乗りましたが、江ノ電というのは線路と民家の間がとても狭いのが特徴です。

外国人たちは、電車のすぐそばに民家が建っているのに、とても驚いていました。窓から手を出して、民家のブロック塀に触ろうとする人までいました。よほど珍しかったのでしょう。日本人でも、江ノ電のあの近さは驚きですが、外国人にとっては衝撃だったようです。その後長谷の大仏に連れて行きましたが、写真ばかり撮っていて、そんなに興味はなさそう。

ランチには、鎌倉山の●亭という会席料理の店に連れて行きました。●亭は、山一つがすべて料亭の敷地です。5万平方メートルという広大な敷地に、十三重の塔や八角堂、石造十王像、百仏崖などが点在しています。外国人たちはその景色に「オウ!」とか何とか言っていましたが、まあまあの反応。

食事は、そば会席。外国人たちには、量が少なかったかもしれません。料理よりも、盛り付けの美しさと器に興味を持ったようでした。

午後、小町通りに連れて行ったら、今度は興味津々でいろいろな店に入ろうとします。小町通りの店というのは、こじんまりした店がほとんどです。身体の大きな外国人からしたら、おもちゃみたいな感じなのかもしれません。和風の小物雑貨を売っている店は、みんな気に入ったようでした。お土産を買って満足気です。

夕方は横浜のみなとみらいに行きました。鎌倉とはまったく違う未来的な景色に驚いていましたが、それ以上に彼らが驚いたものがあります。それは「写ルンです」の自動販売機。今はスマホで写真が撮れる時代ですから、もう使い捨てカメラなんて、どこ探しても売っていませんが、当時は写ルンですの全盛期。ドイツ人やアメリカ人は、カメラが使い捨であることにまずビックリしたようです。そして、それが自動販売機で売られていたことに、さらに驚いたのです。確かに日本人でもインスタントとはいえ、カメラの自動販売機は珍しい。私もあまり見たことがありません。でもあの当時、みなとみらいの入口では売っていたのです。今はもちろん、そんな自動販売機はありません。

外国人たちには、大仏やお寺よりも、明らかに江ノ電と写ルンですの自動販売機のほうがインパクトがあったようです。不思議な国JAPANという印象が、さらに強くなったかもしれません。


英語は世界共通語?日本なら日本語?

数年前、駅の改札で困っている金髪碧眼の若い女性に遭遇しました。大きな荷物を持っていたので、一目で旅行者と分かりました。私はあまり英語が得意ではありませんが、とても困っている様子でしたので、助けてあげたいと思いました。恐る恐る
「どうかしましたか?」
と英語で話しかけました。しかし、彼女は半分パニックになっていて、私の言っていることが分からないようでした。ここで初めて、私は彼女が英語圏の人ではないかもしれないと思いました。
「英語は話せますか?」
と聞くと、案の上、彼女は首を横に振りました。実のところ、あまり流暢な英語で答えられては、私の英語力では理解できなかったでしょうから、彼女が英語が話せなくて良かったのかもしれません。

私は他に話せる外国語など有りませんので、仕方なく、ゆっくりと日本語で話しました。日本語は少し分かるようで、彼女はJR線を使いたかったのに、今いる改札は私鉄の物だったため、思った行き先が運賃表になく、パニックになっていたようでした。私は彼女を連れてJR線の改札へ行き、彼女の行き先を駅員さんに伝え、事なきを得ました。

私は、日本にやってくるような外国人だったら、みんな英語が話せると先入観を持っていました。しかし、英語が公用語ではない国も沢山ありますし、当然英語が話せない外国人も沢山いるのです。
冷静に考えれば当たり前のことなのですが、外国人を目の前にすると、つい英語で話しかけてしまいます。日本にいるのですから、日本語で話しかける方が無難なのだと、そのときつくづく思いました。


多種多様、様々な面白い世界の名前

国際的な出会いがあると、面白い名前に出会います仕事で海外へ行くことが多いのですが、
外国人の方と接していると、名前って面白いなあ、と思います。

外国人の名前で不思議なのが多いのがトルコ。
オカンさん、という関西弁で「お母さん」のような男の人の名前の方もいます。
オカンさん、と言ってるうちに間違えてお母さん、と呼んでしまったり、男だ男だって思っていたら、オトンって呼んでしまったりしました。
日本語がわかる人なので、慣れているのか笑って許してくれましたが、私ってば失礼だったなあ、と思っています。

あと、トルコの別の男性の名前で呼びづらい名前もありました。とっても良い人なのに、名前がウザイさんだったのです。
ウザイっていうのは、詳しくは忘れてしまいましたが、宇宙とかそういう感じの哲学的なすごく良い名前なのだそうです。
でも、日本語の意味を考えると、ウザイさんは呼ぶのが申し訳なかったです。

日本人の名前も外国人からしたらおかしいのがたくさんあるみたいです。
アメリカでレストランのウェイティングリストに名前を書き込む時に後藤さんという友達が、Gotoと書いたら、go toと間違えて飛ばされたり、テルミっていう友達は名前を教えてって言われてテルミって答えたらtell meと言ってるのかと思われ、「名前を教えて」「tell me。私に言って」「だから僕はジャックだってば。君は?」「だから、tell me私に言って」って何度か繰り返してしまったとか。

私のホストファミリーは、友達のジュンコを紹介したら、ジュンコが帰った後に、あの子の親は酷いわ、可哀想な子だ!って言ってるから何かと思ったら、JUNKOはoを抜かすとJUNK。ジャンクになってしまいます。ガラクタとかクズっていう意味ですが、日本語のジュンコは良い名前なんだよ、と必死で説明しました。

外国人通しで、名前って考えるだけでも結構面白く交流のネタになります。


日本食を作って国際交流

肉じゃがを作ると外人に喜ばれました外国人と交流するにあたって、面白いな、と思うのは食文化です。
学生の頃はホームステイマニアで、
たくさんの国でホームステイを体験しました。
ホームステイで行った国はアメリカ、イギリス、
ニュージーランド、イタリア、トルコです。

何処へ行っても、その国のお母さんの料理を頂くので、
やっぱりお返しに日本食で感謝の気持ちを伝えたいと思い、料理をしました。

外国人の思う日本食は寿司、天ぷらでしょう。
さすがに寿司はカルフォルニア巻や河童巻きは出来てもお魚では出来ません。
母から教えて貰った太巻きでお花の模様やパンダの模様にするのは
味云々よりも見た目にこだわる日本食文化を伝えるのに良かったです。
酢飯が嫌だって言う人も結構いましたが、見た目で喜んで貰えました。

定番の肉じゃがは、味は喜んで貰える事が多かったです。
アメリカ人のホストファミリーは、「肉じゃが」と言ったら
「ミックジャガー?!」と返され大笑いしました。
肉じゃがは、作り方を説明した時に、
どこの国の人もお砂糖を入れると言うと気持ち悪がられました。

他の国では、お料理にお砂糖は使わないので、
受け入れられない人が多いです。
一度それを学んでからは、説明する時に
肉じゃがだけでなく他のも、お砂糖と言うのをやめました。

日本では色んな料理を食べられるので、
自分が抵抗あるものはあまりありませんが
外国人の方にとって、日本食は珍しいもののようです。
また、そこから会話が生まれて、食文化の交流も面白かったです。


お国訛りの英語の愛嬌

お国訛りのある英語は愛嬌です外国人同士で英語を話すと、ちょっとオカシイ事もいっぱいあります。
私はアメリカに留学している時に
色んな国籍の英語を勉強する仲間に出会いましたが
やはり、お国訛りってレベルが上のクラスになっても抜けないものなんです。

1番イントネーションが抜けないな、と思った国は韓国です。
韓国人の友達数人と、
日本人の私と他の日本人でゲームをしていた時、
注意してなかったのもあるけれど、
韓国人達はハングルで話していると思い込んでいました。

ところが、韓国人達は私たちがいるので、気を使って英語を話していたのです。
イントネーションがハングルそのもので、韓国人同士で話してると
英語だとは分からない事もありました。

ラテン系のイタリアやスペイン、
メキシコの友達達は巻き舌が激しかったです。
Rの発音が良すぎて巻いてて面白かったです。
スウェーデンだか、北欧のお友達も巻いてたとおもいます。

では、日本人はキレイに話すのか、と言われそうですが
外国人からすると、日本人の英語は母音が入ってて嫌だって言われました。
気を付けて発音していても、気がつかないところで
母音が語尾に付いてしまっている事が多いようです。
日本語で母音のない単語はないですものね。
レベルが上のクラスになっても、発音の母音は言われました。

でも、私はお国訛りが好きです。
みんながみんな、アメリカ英語や
クイーンズイングリッシュを話す必要はないと思います。
そりゃ、理解出来ないほど酷いのは
コミュニケーションに差し支えるので問題ですが、
通訳者でもない限りは愛嬌だと思っています。

色んなお国訛りの英語を聞いてると、
国際交流してるなって感じがします。